三佐祭典関係歴史年表
明治十三年 | 板屋町が現在の人形山車を建造。 |
明治四十年 | 仲町が現在の人形山車の大修理を行う。 |
大正三年 | 仲屋敷、裏町、板屋町、新港、本町、仲町、遠見下、薬師堂の八組で祭典を執り行う。 なんと、この年は御供山車の大村が参加していない。そんな事があり得るのだろうか・・・。 |
昭和二年 | 本町と海原新町の人形山車がこの年、建造される。本町はこれ以後約五十年白木でした。 |
昭和十二年 | この年は大正三年に加え大村も参加して祭典を執り行う。 この年大年番は裏町。この段階ではまだ大年番は裏町、仲町、本町、板屋町に限られていた。 |
昭和二十五年 | 十二年のメンバーに仲村を加え十組で行う。 |
昭和二十六年 | 前年とほぼ同様にて執り行われる。 |
昭和二十九年 | 大年番は板屋町。この年、三佐と海原が一緒に山車曳きをする。大喧嘩となり最初で最後の合同山車曳きとなる・・・ |
昭和三十一年 | 大年番は本町。 |
昭和三十二年 | 大村が現在の山車を建造。建造者は板屋町の河村辰夫氏 |
昭和三十三年 | 大年番は仲町。この年より宵宮、本宮のコースを隔年毎に交替する事となった。板若は不参加。 |
昭和三十八年 | 大年番は板屋町。仲屋敷は不参加。仲町と本町は若連解散の上、祭典不参加。 この年を最後に祭典における曳き山車行事は中断した。 |
昭和四十八年 | 大年番は裏町。裏町、仲町、本町、板屋町、新港、大村の六組が参加。 この年より獅子子の人員は大年番にて負担する事となった。 |
昭和五十年 | 大年番は仲町。四十八年とほぼ同様にて執り行われる。 |
昭和五十二年 | 大年番は大村。四十八年のメンバーに沖が加わり七組が参加。 |
昭和五十三年 | 大年番は新港。メンバーは五十二年同様。 |
昭和五十四年 | 大年番は板屋町。薬師堂が復帰、八坂が初参加。九組で執り行われた。 |
昭和五十五年 | 大年番は裏町。この年板屋町の人形山車は御旅所にて練りの差中転倒、大破。 |
昭和五十六年 | 大年番は仲町。この年より宵宮、本宮のコースを毎年交互に行うことになった。仲村が初参加。 前年大破した板屋町は修復の上、参加しました。(修復請負-三浦人形店) |
昭和五十七年 | 大年番は本町。前年とほぼ同様にて執り行われる。 この年、7/30に大分七夕祭りに参加。 |
昭和五十八年 | 大年番は沖。前年とほぼ同様にて執り行われる。 |
昭和五十九年 | 大年番は新港。前年とほぼ同様にて執り行われる。 この年、8/3に大分七夕祭りに参加。 |
昭和六十年 | 大年番は大村。前年とほぼ同様にて執り行われる。 |
昭和六十一年 | 大年番は板屋町。この年、仲町は人形山車修復不可能な為、曳き山車には不参加。 |
昭和六十二年 | 大年番は薬師堂。前年無念の不参加だった仲町が全面修復、彩色して復帰。金色目映く、凄かった・・・。 |
昭和六十三年 | 大年番は裏町。昭和最後の大年番となってしまった。 |
平成元年 | 大年番は仲村。天皇崩御により祭典自粛の為「三佐春祭り」と称して執り行った。大年番仲村の気合いに脱帽。 |
平成二年 | 大年番は仲町。本来の形の祭典を執り行う。 |
平成三年 | 大年番は本町。前年とほぼ同様にて執り行われる。 |
平成四年 | 大年番は沖。前年とほぼ同様にて執り行われる。 |
平成五年 | 大年番は新港。前年とほぼ同様にて執り行われる。大雨が降り大変であった。 |
平成六年 | 大年番は大村。前年とほぼ同様にて執り行われる。 |
平成七年 | 大年番は板屋町。前年とほぼ同様にて執り行われる。テレビ大分の取材を受ける。大雨に降られる・・・。 |
平成八年 | 大年番は薬師堂。前年とほぼ同様にて執り行われる。 人形の選択方法が改められる。大年番が人形山車の場合は前から並び順に、太鼓山車の場合 は人形山車六台による抽選で順番を決定し人形を選択する。 |
平成九年 | 大年番は裏町。前年とほぼ同様にて執り行われる。 |
平成十年 | 大年番は仲村。これまでにない厳しい祭典となる。(地元警察が三役会議に出席!等) |
平成十一年 | 大年番は仲町。これまでにない規律ある良い祭典でした。仲町筋にて仲町を除く人形山車五台で追い山車。 板屋町が大修理。海原の新町から三佐へ移転した三浦人形店が請け負う。老朽化していた板屋町が往年の輝きを得る。 |
平成十二年 | 大年番は本町。沖若が大屋根御殿部分の大改造工事完了の為、一番人形を積む。十二月新港が大修理完了お披露目。 |
平成十三年 | 大年番は沖。新港が前年十二月に大修理を終え、修理後最初の祭典。注目の的となっていた。 |
平成十四年 | 大年番は新港。手締めの儀終了後、新港の狭い路地まで各山車が入った。 大年番は祭典終了後、次組に大年番役務を引き渡すことになる。これはある意味大改革。 |
平成十五年 | 大年番は大村。大村は御供山車であるため、この年を最後に大年番の役務は受けないことが決まった。 八月二十三日、大友河原市に出演。十六年ぶりに三佐の山車が三佐を離れる・・・。大分川河川敷で大分市民から喝采。 祭典終了後、大村から大年番を引き継いでいた為、板屋町が大年番としてこのイベントに参加した。 |
平成十六年 | 大年番は板屋町。前年の大友河原市に続いて実質的に二度連続の大年番。二十九日の最後の解散場所を野坂神社 とした。この年仲町、大村が全面彩色を施す。その為、お祝いの意味を込めて仲町に一番人形を譲渡。 TOS、OBS、OAB、NHK、大分合同新聞が取材に来る。市の広報番組、フレッシュおおいたで大々的に紹介される。 一滴の雨も降らず楽しいお祭りだったと思います。 |
この年表は私の所有している資料だけを参考に作成したため、詳細のわからない年が数多くあります。
また、誤記もあるかもしれません。
その辺りをお汲み取りの上、ご理解の程宜しくお願いいたします。